ミニカーを沢山ジャラジャラと床に出して走らせたり大きな音を立ててぶつけ合わせたりしながら遊びに興じるキューリくん。
そうかと思えば大きな段ボールを2枚持ってきて工作をはじめる。海賊船を作るのだという。
完成に2時間くらいか。
船のパーツをセロテープで貼り合わせていたら、全部セロテープがなくなってしまったのだろう。セロテープ台から取り外されたテープの芯が無造作に床に転がっている。
船を作る時に使われたはさみとカッターも刃をむき出しにしたままやはり床に転がっていた。
次にコマを回しはじめる。キューリくんの最近の課題は、コマを手の上でどれだけ長い時間乗せていられるか、ということだ。
手持ちのコマは10個以上。それを総動員して回し、楽しんでいる。
思いついたように卓球がやりたいと騒ぎ出し、レゴブロックで自作のラケットを作り、アルミホイルを適当な大きさに丸め、そうしてダイニングテーブルを卓球台に見立て「卓球をやろう!」と張り切っている。
ところが当然上手くいくはずもなく、キューリくんは床に転がって大声を上げて不満を述べていた。
そんなにほしいのならと、ホームセンターへ出かける用事のあった主人がキューリくんを連れて出掛けていき、卓球のラケットとピンポン玉も購入して帰ってくる。
早速卓球が再開する。数ラリーは続くのだけれど如何せん卓球台がダイニングテーブルであるために、卓球台としては狭く、思うようにプレーできない。
ピンポン玉がどこかへ飛ぶたびに探すのだけれど、とても捜索が困難である。床がほぼびっしりと物で覆いつくされていて、なかなか探し出すのが難しいのだ。
物に埋もれてしまったいくつものピンポン玉はどこへいってしまったのだろう。この部屋の中にいくつも潜んでいることは確かなのだけれど。
卓球が思うようにできないと分かるとキューリくんは大粒の涙を流して悔しがる。どこにぶつけていいのか分からない怒りが形となり、泣く。
卓球がダメなのだと判断すると次に「花火がやりたい」。
キューリくんは去年の花火の残りを以前からやりたがっていたのだけれど、どうしても今日やりたいのだと言い出した。
主人がはじめはやらないことを伝えていたのだけれど、粘り勝ちで少々風が吹く中、キューリくんは時々大声を上げながら花火を楽しむ。
さて、ここまででキューリくんは一つも片付けを行っていないのがお分かりだろうか。
まるで散らかしているという自覚がないように、気付けば物に溢れた汚い中で遊びに夢中になってしまう。
片付けてスペースを生み出し、そこで新たな遊びをはじめようという概念が欠如しているかのように、次から次へと物を持ち出してきては次から次へと新しいものに興味が向かってしまう。
「~へ片付けようね」と具体的に指示を出さないといつまでたっても散らかしたままで、部屋は汚くなる一方だ。
またここまで散らかしてしまうと、ADHD不注意型ではない大人であってもどこから手を付けて良いのやら判断を下すのが難しい。
キューリくんにとってはなおさらのことで、ただ「片付けなさい」と言われても頭が混乱し、「できないできない!」と狂ったように泣くばかりである。
かと言ってそれじゃあと、大人が全て片付けてしまうのはキューリくんのためにはならず。
結局(この子は1人では片付けられないのだ)と割り切り、そうして細かく指示を与えなければ、自力では散らかした山を克服することは難しいのだと考え、サポートするしかないのだと思う。
けれどこのサポート加減が難しいのである。
あくまでも本人の自主性に任せたいのだけれど「片付けたい」という気持ちが起こらず、いつまでもゴミ山のような環境で、止めなければ山は大きくなるばかりのキューリくん。
そこで「本棚は本棚へ」「宝は宝箱へ」「白い紙はオレンジの箱へ」と片付ける場所は決まっているのだが。
例えば本棚1つ取って考えてみても、図鑑同士を同じグループと認識してまとめて置くことでスッキリと見せよう、という感覚がないし、背表紙が逆だったり、本を本で挟んでしまっていたりと、乱雑に本棚にとりあえず突っ込んであるだけなのだ。
整えることが難しい。
本棚へ入れたことだけでよしとするのか、それから先のこと、つまり取り出しやすい分かりやすい本棚作りを教えるべきか。またはどの程度まで親の手が入っていいのか。
おそらくキューリくんの頭は、本棚へ本を入れるという作業のことだけで容量がいっぱいなので、今はまだ言いたいことをぐっとこらえて「片付けてくれて助かったよ!」などと労いながらも、後でこっそり親が整えているという次第である。
『読みやすい本棚』を目指しつつも、まだその道は遠いような気がする。