「お母さん、世界一好きだよ!」
「キューリくん、宇宙一好きだよ!」
「えー、ぼくの方がお母さんのこと好きだよ!」
最近毎日のように取り交わされる挨拶代わりのこの言葉。
いったいいつまでそんな風に真剣に想ってくれて、いつまで言ってくれる言葉なのだろうか。
そう。今ここにとっ散らかっているトミカの車でさえ、今は愛しているのかもしれないけれど、いつかは飽き、見向きもしなくなることだろう。
飽きるということは、成長を表すことであり、喜ばしいことなのかもしれない。そして親も並行して親として成長していくために、後ろを振り返らなければ気付かないのだけれど。
「そういえば、ああだったね」と戻ってこない過去を述懐したりする。
◇
「ぼくへその緒が見たい」
突然の申し出であった。
勿論大切に保管してあるし、思い出としてしまってある。
へその緒という言葉をどこで聞いたのか知らないけれど、とにかくキューリくんははっきりとそう言った。
「いいよ」
私はうれしいような恥ずかしいような誇らしいような複雑な気持ちで、キューリくんの目の前に干からびてミイラ化したへその緒を差し出す。
その不気味さからか、キューリくんは触ろうとはせず、のぞき込むように見学するだけであったけれど。
「ほんとうにこれでお母さんとつながっていたの?」
「そうだよ。でももっと太かったかな。これは水分がなくなって縮んでいる状態だから」
「ふーん、そうなんだ」
キューリくんはこの初対面のものに、いまいちどう答えていいか分からないのだろう。
それに彼が想像していた『へその緒』とは違ったのかもしれない。
急速に興味を失っていった。
それよりも超未熟児で2か月入院していた時の入院日記の方に興味を傾ける。
主人も私も一緒にのぞき込む。
「ああ、なんとなく面影があるね!」
「そう?」
照れたようにキューリくんが言う。
「ぼくは泣き声大きかったの?」
「うん、すごく大きかったよ。NICU中に響いていた」
「そうなんだ…」
恥ずかしそうにするキューリくん。
日記に貼ってあった写真を主にチェックすると、キューリくんは飽きたのか、やはりトミカ遊びにかえっていった。
◇
写真の中のキューリくんは赤ちゃんでとても小さいけれど、でもこんな小さな時からもしかしたら『飽きる』ということは備わっていて、例えば足を動かしていたけれど、それに飽きて指しゃぶりをしたり、それにも飽きて手をグーパーしてみたり、と忙しく興味が移っていたのかもしれない。
その原点を、キューリくんは今でも生きているのかもしれないし、これは大人である私もまた、そうであるかもしれない。
『飽きる』ということは、人間として生きていく上で重要な機能であるのかもしれない。